氏姓制度の衰退

平安時代中期以降には藤原氏の隆盛とそれに伴う他家の没落。また、桓武天皇より平朝臣、清和天皇などから源朝臣
のように諸皇子に氏姓をあたえる臣籍降下が盛んに行われるようになった(賜姓制度)ため、朝臣以外の姓は廃れていきます。

古くから地方で富と権力を握っていた地方豪族も、旧来の氏を棄て中央の勢力のある氏に属し、その名を称するように
なりました。

彼らは都に上って官職を得るために、中央の有力な氏との縁を結ぼうとしたためです。

これは家業の成立によって、特定の家柄が固定されるようになったためでもありました。

源・平・藤・橘などの大きな氏が地方に広がったのはこのためでした。

この中でも藤原氏、源氏、平氏、橘氏は代表的な姓氏として、源平藤橘(げんぺいとうきつ)と称され
4大氏(ウジ)として著名のものとなりました。





     

4大氏(ウジ)の源平藤橘

源平藤橘とは日本における貴種名族の四つ、源氏・平氏・藤原氏・橘氏をまとめた言い方です。

中国の4大姓(張、王、李、趙)にならって、四の数字を合わせて作ったものでしょう。

藤原氏を除く源氏、平氏、橘氏は天皇家の支流でもあり皇別の氏族群の代表的家系です。

藤原氏が四姓に並称されるのは、鎌足の子不比等から代々皇室の強固な外戚となったためです。

聖武天皇から今上天皇まで85人の天皇(北朝天皇も含む)の母方の実に78.8%が藤原氏の出自でした。

もちろんこの四大姓氏以外にも前出のように紀、菅原、和気などの有力な氏はありました。

ただ、室町時代ころから源平交代説(武家政権は源氏と平氏が易姓革命的に交代する)という俗説が
信じられてきたように源氏、平氏とともに藤原氏,橘氏が人気が高く、系図などを作る時に、この4氏に
結び付けようとする人が多かったようです。

鎌倉時代初期(1200年)頃に平基親が著した「官職秘抄」には「外記史に四姓(源平藤橘)の人を任ぜず」とあり
平安時代末期頃から源平藤橘の四姓を高貴な姓とする世習が成立していたことがうかがわれます。





     

藤原氏

藤原氏の発祥の地は大和国高市郡藤原の里(現 奈良県橿原市高殿町)です。

「藤原」の氏(ウジ)は、中臣鎌足が大化改新での功績により、天智天皇から地名にちなんで賜りました。

中臣氏は天児屋根命(アメノコヤネノミコト)に始まる神別氏族の出で、22世の孫が中臣鎌足です。

中臣氏は古くから大和朝廷の神事を司った名門で、鎌足が藤原姓になっても、他のものはそのまま中臣姓を称しました。

鎌足の次男、不比等は傑出した人物で、「養老律令」や「大宝律令」の編纂完成に力を尽くしました。

不比等は女(むすめ)の宮子を文武天皇の夫人とし、聖武天皇を生んで皇室の外戚としての地位を築いた。

不比等の長男・武智麻呂は南家、次男・房前は北家、三男・宇合は式家、四男・麻呂は京家を興しました。

平安時代中期から北家のみが栄え、藤原冬嗣の子藤原良房は清和天皇の外戚となり人臣で初めての摂政となりました。

皇室と姻戚関係を結ぶことにより他氏を排斥し権力を増強する路線は良房の養子藤原基経に引き継がれ陽成天皇の
外戚として、幼帝の摂政、成人してからは関白を務めました。

以後、江戸末期まで摂政関白は(豊臣氏を除き)藤原北家のこの系統に限られていました。

これら公家の藤原氏に対して、地方に下って土着し、そこで勢力を拡大するものも多くありました。

武家の藤原氏で、不比等の子・房前の子・魚名から多く出ました。

こちらも北家からの流れといえ、秀郷と利仁からの流れが有名です。

彼らは地方の在なので、藤原氏の出身であることを前面に出すために何々の藤原とか、「藤」の字を名字につけてその出目
を強調しました。

日本で一番多い名字の佐藤や、伊藤、斎藤などが該当し、俗に十六藤とか三十二藤といわれるように一族が多いに栄えた
ものが多くあります。

この武家藤原氏からは私たちにも関係する数多くの庶民の名字が生まれました。。

一方、公家の藤原氏は中央の官職をほぼ独占していましたので、藤原であることをとくに示す必要はありませんでした。

彼らは邸宅の所在地名で称されるようになりました。





賜姓制度の源氏、平氏、橘氏

天皇家は度重なる遷都と新都造営の多額の支出で疲弊し、また多くの子女をかかえ財政事情が苦しくなり、歳費削減のため
これらの子女を臣籍降下させました。

臣籍降下にあたって天皇家は名字をもたないため、新しい姓をつくらねばなりませんでした。

そのため賜姓(シセイ)が行われました。

賜姓しての臣籍降下は歴代天皇がしばしば行いました。

当初は五代目、六代目で臣籍降下させていたものが、奈良時代には二代、三代になりました。

桓武天皇の代には弟や一代目の五子までも臣籍降下させていました。





     

源氏

桓武平氏のニ代後の嵯峨天皇も32人の臣籍降下を行い、彼らすべてに「源」の姓を下賜しました。

「源」の姓は、漢籍に詳しい嵯峨天皇が中国の北魏の大武帝が同族の河西王の子賀を西平侯に任じた時に
「我らは家系の源は同じである。そこで今から源を氏とせよ。」とした故事に因ったものです。

そして源賀にならって、臣籍降下の皇子たちに名も一文字の信、弘、常、融などを名乗らせました。

これ以降、臣籍に降下する皇族はみな源姓を賜ることが多くなりました。

源氏には 嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、
冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、亀山源氏
後二条源氏、後醍醐源氏、正親町源氏の21流があります。



     

平氏

桓武平氏が最初で、他には仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏がありました。

このうち最も有名なのが桓武平氏で、葛原(クズハラ)、加陽(カヤ)、万多(マンダ)、仲野(ナカノ)の四親王の子孫達に
「平」の姓を下賜して臣籍降下させました。

「平」の姓は桓武天皇が造営した「平安京」に由来するとともに、世の平安を願う思いも込められたのでしょう。

このうち最も栄えたのは葛原親王の系統で、桓武天皇の孫にあたる高棟王の子孫の高棟流の平氏と、高棟王の甥の高望王
の子孫の高望流の2系統があります。

高棟流の方が先に「平」の姓を下賜され、この子孫は主に公家として栄えました。

一方甥の高望王は高棟王の65年後に「平」の姓を下賜され、高望は上総介となって上総(千葉県)に下向し、そのまま土着して
武家となりました。。

高望王の孫の貞盛は平将門の乱を鎮圧し、以後貞盛の子孫は清和源氏と並ぶ武家の頭領となりました。。

貞盛の子の維衡(コレヒラ)は伊勢国に本拠を置いたので伊勢平氏と呼ばれ、後に平清盛を輩出し、武士として初めて政治の
頂点に立ちました。





    

橘氏

「橘」の姓は植物の名前からのものです。

奈良朝初代の元明女帝が、女官長として天武、持統、文武天皇の三代に仕えた県犬養三千代の労を労い、
「橘」の姓を賜った。

三千代は敏達天皇の五世の孫の美努王に嫁ぎ、葛城王などが生まれた。

その後、三千代は藤原不比等と再婚して安宿姫(光明皇后)を生みました。

三千代の死後、葛城王は母の橘姓を下賜され、臣籍を下って橘諸兄と名乗りました。

橘氏は藤原氏との抗争に敗れ、嵯峨天皇との間に仁明天皇が生まれ一時勢力を盛り返しましたが、
それ以後は栄えることはありませんでした。

しかし橘氏は広相、逸勢(ハヤナリ)、能因法師、小式部などの学者、書家、歌人などの分野でその名が
残りました。










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